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有名な帆船 年代別 Ⅱ

『メアリー・セレスト号』(アメリカ・1861年建造・ブリガンティン) 全長31メートル、282トンの2本マストの帆船です。1872年12月4日、中部大西洋(ポルトガル沖)で無人のまま漂流している所を発見され、発見当時に、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっていないため、航海史上最大の謎とされています。事件には様々な尾ひれが付けられ、実際以上に不可思議な事件として都市伝説化しています。

後にコナン・ドイルの小説「J・ハバクック・ジェフソンの証言」でのマリー・セレスト(Marie Celeste)として広く知られるようになりました。船長の家族を含む全乗員の行方は、現在もなお海事史上のミステリーの一つである。

どのような事件だったのか・・・・

1872年11月7日、船長ベンジャミン・ブリッグズの指揮下、メアリー・セレスト号はニューヨークのメッシナ・アッカーマン&コインから出荷された工業用アルコール(おそらくメタノール)を積み、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへ向けて出航しました。船には船員7人のほか、船長とその妻サラ・E・ブリッグズ、娘ソフィア・マチルダの計10人が乗っていました。

「メアリー・セレスト号」発見当日

1872年12月4日(19世紀には標準時の制定前のため、12月5日であったとも?)、メアリー・セレスト号は、デイ・グラチア号(Dei Gratia)によって発見されました。デイ・グラチア号はメアリー・セレスト号の7日後にニューヨーク港を出港した船で、その船長モアハウスはブリッグズ船長と知り合いでした。デイ・グラチア号の乗組員は2時間ほどメアリー・セレスト号を観察し、「遭難信号を掲げていないがおそらく漂流中なのだろう」と判断しました。そして実際に乗り込んで確かめるべく、一等航海士オリバー・デボーは小さなボート数隻を率いて、メアリー・セレスト号に向かいました。デボーは「船全体がびしょ濡れだ」と報告しています。ポンプは一基を除いて操作不能であり、デッキは水浸しで船倉は3フィート半(約1.1メートル)にわたって浸水していたといいます。しかし船は他の点では良好な状態であるように思われましたが、誰も乗っていませんでした。

前ハッチも食料貯蔵室も共に開いていて、掛時計は機能せず止まっていました。そして、羅針盤は破壊されていました。六分儀とクロノメーターは失われていたため、船が故意に遺棄されたことを示唆していました。そしてこの船唯一の救命ボートは無理矢理引き離された、というよりも故意に降ろされていたようでした。3つの手すりには謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷がありました。また、血まみれの刀剣(に見えたが、実際は赤錆)がブリッグズ船長の寝台の下に隠されていました。

1700樽のアルコールは後にジェノヴァで降ろされたとき9樽が空であったことが分かっていましたが、それ以外は無事で、6か月分の食料と水も残されていました。船内の書類は、ブリッグズ船長の航海日誌以外は全く見つかりませんでした。そしてブリッグズ船長最後の日誌の記入は11月24日の、アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいたと書かれていたことから、11月25日にはアゾレスのセント・メアリー島に到着できる位置と考えられます。デイ・グラチア号の乗組員はメアリー・セレスト号をジブラルタルまで航行しました。

乗組員  ベンジャミン・ブリッグズ 船長 アメリカ 37歳 アルバート・C・リチャードソン 一等航海士 アメリカ 28歳 アンドリュー・ギリング 二等航海士 デンマーク 25歳 エドワード・W・ヘッド 客室乗務員 兼 料理人 アメリカ 23歳 Volkert Lorenson 船員 オランダ 29歳 Arian Martens 船員 オランダ 35歳 Boy Lorenson 船員 オランダ 23歳 Gotlieb Gondeschall 船員 ドイツ 23歳

乗客 サラ・エリザベス・ブリッグズ 船長の妻 30歳 ソフィア・マチルダ・ブリッグズ 娘 2歳

『カティーサーク』(イギリス・1869年建造、クリッパー船)前述参考にしてください。スコッチの銘柄の名称としても有名ですが、お酒の「カティーサーク」は1923年に誕生しました。カラメル着色をしていないので、ライトでスムーズな味わいが特徴です。マッカランやハイランドパーク、グレンロセス等の高級モルトを使ったエレガントなブレンデッドウィスキーです。

『ゼーアドラー』(ドイツ・仮装巡洋艦)すでに蒸気船が主力であった第一次世界大戦で、フェリクス・フォン・ルックナー伯爵はこの艦で通商破壊を行い、海の悪魔 (Seeteufel) と称えられました。

ユトランド沖海戦後、イギリス海軍に対して劣勢となったドイツ海軍は、現存艦隊主義のもとで艦隊の主力をキール軍港に隠し海軍としての行動を慎むようにしていました。敵のいなくなったイギリス艦隊は海上封鎖をすることによって、ドイツ経済の消耗を狙いました。こうした状況の中で、ドイツ海軍はUボートや仮装巡洋艦による通商破壊戦(通商物資の破壊や商船の破壊)をするようになりました。しかし、イギリス海軍の封鎖線は厳重で、簡単には突破することができませんでした。そこでドイツ海軍司令部は、商船に化けた帆船ならば封鎖線をやり過ごせるのでは?と考え、帆船での勤務経験が長く、太平洋や大西洋についての知識があり、そして各国語も堪能なルックナー伯爵に白羽の矢を立てました。

仮装巡洋艦には、戦争当初に北海にてドイツ海軍Uボート「U-36」によって拿捕されたアメリカ船籍で三本マストのクリッパー帆船パス・オブ・バルマハ号(Pass of Balmaha, 1,571トン)を改造して使用することになりました。船体には10.5cm速射砲2門、重機関銃2丁がを装着しましたが、外見からはわからないように隠蔽しての装備になりました。また、荒天用に使用する500馬力の補助ディーゼルエンジンも搭載。小銃や手榴弾といった武器は隠し倉庫に積載され、石油タンク、飲料水タンク、食糧貯蔵庫も新たに作り変えられました。捕虜収容のための船室も作り、士官用特別船室、捕虜専用食堂も備えました。ルックナーは、はじめ船名をアルバトロス号(Albatross=アホウドリ)にしようと考えていましたが、すでにアルバトロス号艦が存在していたため、部下と相談してゼーアドラー(Seeadler=海の鷲)としました。

正体を隠して船に接近、不意にドイツ軍旗を掲げて発砲、停船させてから拿捕するという方法です。乗員は全てゼーアドラー号に移動させてから、船を沈没させました。捕虜には、船の前部(弾薬庫があった)に入らないことと、航行の邪魔をしない限り、船内で自由にすることが許されていました。

クルーズしたい貴方へ
ゼーアドラー号の戦果

1917年1月7日 - グラディス・ロイヤル号(Gladis Royle、3,268トン) - イギリス汽船。拿捕、撃沈。

1917年1月10日 - ランディー・アイランド号(Lundy Island、3,095トン) - イギリス汽船。拿捕、撃沈。

1917年1月21日 - シャルル・グノー号(Charles Gounod、2,199トン) - フランス帆船。拿捕、撃沈。

1917年1月24日 - パーシー号(Perce、364トン) - カナダ帆船。拿捕、撃沈。

1917年2月3日 - アントナン号(Antonin、3,071トン) - フランス帆船。拿捕、撃沈。

1917年2月9日 - ブエノス・アイレス号(Buenos Ayres、1,811トン) - イタリア帆船。拿捕、撃沈。

1917年2月19日 - ピンモア号(Pinmore、2,431トン) - イギリス帆船。拿捕、撃沈。

1917年2月26日 - ブリティッシュ・ヨーマン号(British Yeoman、1,953トン) - イギリス帆船。拿捕、撃沈。

1917年2月26日 - ラ・ロシュフコー号(Le Rochfoucauld、2,200トン) - フランス帆船。拿捕、撃沈。

1917年3月5日 - デュプレクス号(Dupleix、2,206トン) - フランス帆船。拿捕、撃沈。

1917年3月11日 - ホーンガース号(Horngarth、3,609トン) - イギリス汽船。拿捕、撃沈。

1917年3月20日 - カンブローヌ号(Cambronne、1,833トン) - フランス帆船。拿捕、リオ・デ・ジャネイロへ捕虜を移送。

1917年6月14日 - A. B. ジョンソン号(A. B. Johnson、529トン) - アメリカ帆船。拿捕、撃沈。

1917年6月18日 - R. C. スレイド号(R. C. Slade、673トン) - アメリカ帆船。拿捕、撃沈。

1917年7月8日 - マニラ号(Manila、731トン) - アメリカ帆船。拿捕、撃沈。

1917年8月2日にソシエテ諸島で座礁沈没しました。

『ホクレア』(ハワイ・1975年建造、カヌー)

1975年にアメリカ合衆国建国200周年記念事業の一つとして建造されました。伝統的航海技術研究の為に建造された双胴の航海カヌーです。ナイノア・トンプソンはこの船を用いて独自のスター・ナヴィゲーション技術を編み出すことに成功しました。

構造は全長約19メートル。2本マスト。帆は建造当初はポリネシアの伝統的なクラブクロウ・セイル(古代からオセアニアで広く用いられていた帆の形。カニの爪のような形をしている為にこう呼ばれています)を装備していましたが、近年ではジブ(帆)付きのラテン・セイル(大三角帆)を装備していることが多かったのですが、2006年11月の改修で再びクラブクロウ・セイルに装備されました。近年の実験の結果では、風上への航走能力ではラテンセイルよりもクラブクロウ・セイルの方が優れていることがわかっています。船体はガラス繊維でコーティングされた合板(1990年に建造された木造船のハワイロアと混同されるが、ホクレアは木造船ではありません)。クロスビーム、デッキはオーク積層合板。船尾に3本の艪舵(ステアリング・スウィープ、ステアリング・パドルと呼ばれる)を備えています。港内での移動には船外機を使用するか、伴走船による曳航を行う(船外機が装備されていたのは1970年代末から1980年にかけて)。

建造直後からハワイ先住民の伝統文化復興運動のシンボルとなっていますが、アオテアロア(ニュージーランド)のマオリやクック諸島、仏領ポリネシア、ミクロネシア連邦、日本などからも、航海カヌー操船技術の研修生を受け入れています。また1995年以降はハワイの子供たちの教育プログラムにも頻繁に利用されています。この教育プログラムは、現在のホクレアの活動の中心的内容となっています。現在までにハワイからニュージーランド、イースター島、タヒチ等、ポリネシア・トライアングル内の主要な島々を全て訪問していて、これまでの間の航海距離は地球4周と半分です。

浪漫溢れる船
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